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応援歌80余年史

  • 応援団の誕生と存在について

我が厚木高校の応援歌の歴史を語る場合に、必要にして欠くべからざるものは伝統ある応援団の誕生と存在であろう。厚木高校応援団の誕生と存在については旧制厚木中学校卒業生で元厚木市長でおられた故足立原茂徳先生(中32回)が、1990年(平成2年)1月1日に編集・発行された「神奈川県立厚木高等学校応援団史」の中で「自分が旧制厚木中学校に入学した1933年(昭和8年)には、新入生達が運動場の一隅に集められ、上級生達より校歌・応援歌の歌唱指導を受けた」と書かれている。ちなみに校歌はその2年前に制定され、第一応援歌は同年に制作されている。

また、毎日新聞社横浜支局編・1975年(昭和50年)「わが母校 わが友」にも厚木中学校に関する特集記事の中で、応援団はこの頃に既に誕生し存在していたと書かれている。しかし、この応援団組織は、上級生達が任意で誕生させた私設応援団で公認団体ではなかった。

当時の厚木中学校は駅伝競走や陸上競技が強く、通学時に使用していた教科書や教材用具入れの白いふろしきを振りながら、蛮声を張り上げて駅伝や陸上の選手達を応援していたという。しかし、この私設応援団こそが戦後の1953年(昭和28年)に全校生徒を団員とし、生徒会総務・新聞部と同格の正式な公認団体である応援団誕生への基礎を築いていった。


  • 応援歌の歴史について

厚木高校の応援歌の歴史については、大きく分けて3世代に渡って語ることができる。

第1世代 創設黎明期 1933年(昭和8年)頃から
  第一応援歌 第二応援歌 第三応援歌

第2世代 発展期 1963年(昭和38年)から
  応援歌「燃ゆる闘志」 応援歌「栄えあれ厚木」
  厚高マーチ「いざや征かん」 厚高讃歌「戸室ケ丘」
  得点時の歌「ああ愉快だね」 応援歌「健児は起てり」
  応援歌「若き覇者」 応援曲「ラランカラン」
  応援曲「ジェンカ」(レットキス)

第3世代 充実期 1981年(昭和56年)から
  応援曲「栄光のマーチ」 応援曲「勝利のマーチ」
  応援歌「精鋭の歌」

(1988年(昭和63年)以後は、応援団廃止により応援歌は休止)

過去から現在までの間に、応援のために歌われた応援歌・応援曲・マーチ等は15曲を数えるが、その中で現在も夏の野球大会で歌われているものは「栄えあれ厚木」・「健児は起てり」・「精鋭の歌」・「マーチ」等の4から5曲である。

ちなみに正式な応援団の創設は1953年(昭和28年)で、公選制度による新生応援団の創設は1963年(昭和38年)である。その後1988年(昭和63年)に廃止となっている。ここでは第1世代からの応援歌・応援曲・マーチの制作上の由来や歴史について振り返ってみる。

1. 第一応援歌

第一応援歌の歴史に関しては、それらに関する資料等が皆無であるため、制作年は不明であり作詞者・作曲者も不詳である。

2. 第二応援歌

1953年(昭和28年)10月1日(木)発行の厚高新聞第19号の記事の中で、厚高新聞委員会の調査により第二応援歌の作詞者および作曲者、又その制作の由来が判明したことが書かれている。その記事によると、1933年(昭和8年)の秋、当時厚木中学校5年生でバンカラ学生の典型のようであった小島喜一氏(中28回)が、同氏の無二の親友であった応援団長の長谷川彰氏(中28回)等数名と、厚中応援歌でもあった「コチャヘ節」の替歌を「今年も厚中は目ざましや、ものすごやドンと鳴りゃパッと出るその早さ・・コチャヘ コチャヘ・・・」と蛮声を張り上げて歌っていた。

すると、その歌を聞いていた野田真教諭が突然「そんな歌を、歌ってはならん」と注意をした。心外に思った小島氏等は「どうして、この歌を歌ってはいけないのですか」と問い返した。

この問いに対し野田教諭は、大声を張り上げて「こんな歌は、遊郭で歌っている歌だ。この神聖なる学園で歌うべきものではない」と大喝した。しかし、血気盛りの長谷川氏が、尚も「それでは我々は、何を歌ったら良いのですか」と抗議をすると、野田教諭はその場で、長谷川氏を殴り倒してしまった。

暫くして野田教諭は「学芸部(現在の演劇部と音楽部に相当)の者2名、後で職員室に来い」と言って職員室に入ってしまった。学芸部の主事の小島氏は、同副主事の箱崎正雄氏(中28回)と恐る恐る職員室に入ってみると、野田教諭は先程とは打って変わった上機嫌で「現在の応援歌は、どうもくだらん。どうだ、お前達2人で明日迄に新しい応援歌の作詞をしてこないか」と言われた。

その提案を受けた小島氏は、今までの応援歌よりも一段と品が良く、また我々の校風にマッチした美しい詩はないものかと苦心惨憺の上、松山中学の寮歌を始めとして他の数校の寮歌を参考にして徹夜で詩を考え、完成させた。

翌日、国語の荒川教諭にその作詞を見てもらおうと思い、荒川教諭の前に行ったが、その前に最初に見せた箱崎氏が、赤インクで一面に修正をされていたので、小島氏は投げやりな気持で荒川教諭の前に詩を置いた。すると荒川教諭は一通り目を通してから「小島うまいぞ、立派なもんだ」と意外にも褒めてくれた。そして、訂正された部分は「あゝ青春の誇りあり・・・・」が「あゝ青春の誇りなる・・・・」だけであった。このようにして作られた第二応援歌は、いつの時代にも学徒の胸奥深く溶け込み、愛唱されてきている。

3. 第三応援歌

1957年(昭和32年)4月13(土)発行の厚高新聞第35号の記事の中で、第三応援歌の作者が厚木市在住の青木和夫氏(中42回)であることが判明したと書かれている。その同氏の紹介記事の内容は、『妖雲影をひそむれば 自由の翼空高く 我又行かん憧憬の 真理の国に羽ばたかん』これは現在、本学の第3応援歌として大いに愛唱されて、我々厚高生の意気を奮い起たせ、その軽快なリズムは多くの人々に膾炙(かいしゃ)(評判が良く、知れ渡るの意味)している絶唱(大変にすぐれた詩や歌の意味)であると書かれている。

同氏は1948年(昭和23年)3月に戸室ケ丘を去っているが、この年は新制度のもとに新学制が施行される前年であった。つまり、同氏は旧制中学校としての最後の卒業生であった。

同氏が在学していた頃の学園での教育方針は軍教的、右翼的な所謂スパルタ式教育であった。又修身としての忠君の道を、深く教え込まれていた。こうした渦中にあった厚中も、1学年約200名で5学年の1,000名程の生徒に対して教師は約25名という少数、しかも4・5年生は工場に学徒動員されてしまっていた。

やがて敗戦になり、戦争もピリオドが打たれ、懐かしい学園に再び帰ったのだが、そう簡単には勉強に手がつかなかった。その後の時代の世相は、戦火に明け暮れた末に敗戦という悲惨な運命、そしてその後に来るインフレの嵐が吹き荒れる状況であった。物資の窮乏のため教科書も5人に1冊という状態であり、窓ガラスも大部分が破れ大いに荒れていた。また教師の絶対的不足の為、講堂に200名からの生徒を集め合併授業も行った。

こうした戦後の荒廃を目の前にして、同氏は学園の再建のために、自分は何が出来るのだろうかと考え、応援団を結成し自らが指揮をとるために団長となり、やがてこの応援団に生徒の士気を鼓舞するための第三応援歌を作ったのである。また、同氏は戦後のクラブ活動の発展に大いに貢献し、応援団を県下一に育て上げたことに加え、弁論部、拳闘部、音楽部、文芸部等が、それぞれ創設された。

このような同氏は、現在の厚高生に対して「もっと都会の学生気質に接触して欲しい。また勇気、自治の精神、民主主義の完成そしてヒューマニティーを忘れずにやって欲しい」と畏敬の念を抱かずにはいられない言葉を与えてくれた。

4. 応援歌「燃ゆる闘志」

厚木高校応援団の民主化の一環として、応援団幹部を一般生徒の選挙によって選出するという、他高校には例を見ない「応援団幹部公選制度」を実現した難波角三氏(高16回)は、かねてから厚木高校応援団に、東京六大学応援団の応援スタイルを導入するべきであると考えていた。

この東京六大学応援団の応援スタイルとは、中間リーダー方式と言われリーダー台で指揮を執る正リーダーと、それを注視して応援席最後部で同じ動きをする「鏡」と呼ばれる副リーダー、そして自分達が担当する応援席エリア前で、この副リーダーからの指示を受ける中間リーダーによって構成されている。そして、正リーダーの意思や動きは、副リーダー(鏡)を経由して中間リーダーに指示され、中間リーダーは観客の応援を副リーダーの指示すなわち正リーダーの意思や動きどおりに誘導していく応援システムである。

この応援システムの導入によって、全体が統一された大応援団組織となり、一糸乱れぬ応援が展開されるのである。また初めて応援に来た人々も、中間リーダーが応援方法を指導してくれるので、迷わずに応援に参加できることになる。

このような近代的な応援スタイルを実現するためには、先ず新しい現代的な感覚の応援歌を作ることが必要であると考え、東京六大学の応援歌を参考に、夏休みを利用し新応援歌を制作した。

折りしも、校内における応援団の民主化の動きに合わせたように制作された、新応援歌「燃ゆる闘志」はその年の秋に開催された「新応援歌発表会」において当時の同氏の2姉君のピアノ門下生であった1年生の青木治美さん(旧姓渡辺・高18回)のピアノ伴奏と同級生や協力者の歌唱で華々しく発表され、第一・第二・第三の旧応援歌とは違う新感覚の応援歌として大変な人気を呼び、新生応援団の目玉応援歌となった。

また、この新応援歌発表会の直前に同氏が同級生に声をかけ、応援歌の練習を行なっていた時、今は亡き新倉健次氏(高16回)(平成3年3月4日逝去)から新応援歌のタイトルについて当初は「燃える闘志」であったが「燃ゆる闘志」の方が応援歌らしいとの提案があり、それを受け入れて現在に至っているそうである。

この新応援歌「燃ゆる闘志」の一番の醍醐味は、何と言っても応援歌の中程で、リーダーが「おゝこの陣頭 歓喜あふれ」で一旦振り下ろした両腕を水平に開き、足の位置を相手に向かって変え、渾身の力を込めて「征け 征け 今ぞ戦わん」と打ち出すダイナミックな「突き」で相手を圧倒するところにある。これは新生応援団の迫力ある心意気を表わしていると言えるだろう。

同氏は音楽に関しては素人ではあるが、歌詞を作りながらメロディーを口ずさみ、それをピアノの個人教師であった2人の姉君が採譜して、曲を完成させたという。

この応援歌は、制作されてから約30年間は野球大会・駅伝大会・陸上競技大会・壮行会などで歌われていたが平成の年号になり応援団廃止と共に歌われなくなった。現在では「かながわ校歌祭」の懇親会で歌われているだけである。制作されてからは半世紀以上が経過している。

また、原作の歌詞が長過ぎるという声が多くあるため、現在ショート・バージョンを検討中という。リーディング考案は、難波角三氏(高16回)である。

ちなみに、法政大学応援団の元団長であり厚木高校応援団OB会会長であった難波浩氏(高11回)は同氏の実兄である。その兄君の影響で、同氏は中学生時代より神宮球場へ通い、東京六大学の応援スタイルを熟知していたそうである。

5. 応援歌「栄えあれ厚木」

1964年(昭和39年)度、厚木高校応援団リーダー部長であった額賀憲生氏(旧姓小島・高17回)は、応援団活動に関しては大変に意識が高く、平素より厚高をPRする「厚高CMソング」のようなユニークな応援歌を作りたいと希望していた。それと共に、野球応援の時には、自軍応援席に大きな人文字「A」を作りたいとも考えていた。

このような希望と考えを持っていた額賀氏は、ある日野球場でつくる人文字「A」の制作図と応援歌の下書きを持って難波角三氏宅を訪れ、上記の自分の考えを同氏に伝えた。

この考えに共感した同氏は、早速ユニークで厚高CMソングのような新応援歌の制作に着手した。CMソングなので歌詞は分かりやすく、また「A」という人文字の為の「アツギ」という英文字を歌詞の中に採り入れることにした。

しかし、その当時の厚木市では英文字の使用例が大変少なく「アツギ」の表記が「ATUGI」か「ATSUGI」のどちらが正しいのか迷い、相模大橋の袂に設置されている厚木市の標示板を見に行き「ATSUGI」が正しいことを確認したそうである。

また、この応援歌の英文字部をどのように歌うか、長い間悩み続けていたが、ある日トイレに行きいつものように英文字の部分を口ずさみながら、思い切りイキんだ拍子に、あの伝説と言われる「A・T・SUGI」の歌い方が、瞬時に浮かんできたそうである。まったく「ウンが良かった」というエピソードである。

このように、色々な苦労を克服して制作された新応援歌「栄えあれ厚木」は、歌詞の中に英文字が入るという、その当時としては画期的でユニークな応援歌という大評判で、当初の予想以上の反響を呼び、各方面から賞賛の声を浴びた。リーディング考案は、難波角三氏(高16回)である。

現在も、野球大会や「かながわ校歌祭」では、チアリーダーの演舞で歌われている。特にチアリーダーが、英文字看板を持って演舞する華麗な姿は他高校を圧倒し、会場から思わず溜息と万雷の拍手が湧きあがるほどの圧巻である。

6. 厚高マーチ「いざや征かん」

当時の東京六大学の野球応援では、早稲田大学の「コンバットマーチ」や慶応大学の「ダッシュKEIO」のように、チャンスに繰り返し歌い続けるマーチ風の応援曲が盛んであった。

難波角三氏(高16回)も、それを聞いて同じようなマーチ風の応援曲を作ろうという意欲が湧き、制作したそうである。

このマーチの後半の歌詞は「今ぞ起ちて○○を倒せ」となっているが、当時は高校生が具体的な名前をあげて「○○を倒せ」と歌うのはどうかという指摘があり、以後は前半の歌詞のみで歌われている。

第10回「かながわ校歌祭」のステージで、何年か振りに元気に歌われたが、曲は単調かつ短い中にもリーディングは全て伝統の「突き」を用い迫力満点であった。リーディング考案は、難波角三氏(高16回)である。

7. 厚高讃歌「戸室ケ丘」

   制作  1965年(昭和40年)
    採譜詞 難波 角三(高16回)

戸室ケ丘の 上に立ち 精鋭集う 我が母校

制覇を遂げて 高らかに 勝利を歌う 我が母校

この厚高讃歌は、野球を含めた各種の競技会において勝利した時、最終最後に全員で肩を組み、表彰式等で伴奏される得賞歌(勇者は帰りぬ)のメロディーの前奏部分に合わせて歌うように制作された。

暮れなずむ夕暮れの背景の中で、勝利の余韻に浸りながら友と肩を組み、この歌を歌うとき、戸室ケ丘に集う幸せをしみじみと感じるであろう。しかしながら、野球も各種の競技会においても勝利することが、あまり無かったためか、仲間と歌うチャンスはほとんどなかったようである。リーディング考案は、難波角三氏(高16回)である。

8. 得点時の歌「ああ愉快だね」

   制作  1965年(昭和40年)
    採譜詞 難波 角三(高16回)

ああ愉快だね 愉快だね ああ愉快だね 愉快だね

ああ愉快だね 愉快だね ああ愉快だね 愉快だね

この歌は、野球の試合で得点した時に全員で肩を組み、童謡「うさぎとかめ」のメロディーに合わせて、相手校を揶揄するように歌うために制作された。童謡の楽しいメロディーと単調な歌詞の繰り返しで、厚高の応援席は大いに盛り上がったそうであるが、これも野球の試合では得点をする機会が少なく、あまり歌われなかったようである。リーディング考案は、難波角三氏(高16回)である。

9. 応援歌「健児は起てり」

1967年(昭和42年)は、当時の世間を二分する全国大学紛争及び「70年安保反対」運動の波が厚木高校にもひたひたと忍び寄る時代であった。そのような状況の中、我が母校厚木高校は創立65周年を迎える記念すべき年であった。

この年、青春真っ只中にいたと同時に、応援団副団長であった飯田政孝氏(高20回)は、自分達が中心となり「応援団の幹部として厚木高校に、何か生きた証が残せたらいいな」というセンチメンタルな気持と「幹部と団員が一体となって肩を組んで歌えるような応援歌が欲しい」という気持が混在していたと言う。

当時の伝統ある厚木高校応援団では、旧制中学や高校の寮歌を彷彿とさせる第一応援歌から第三応援歌に加えて、難波角三氏(高16回)の手による新しい近代的な応援歌「燃ゆる闘志」や「栄えあれ厚木」等が他校に比べて数多く存在し、応援歌とリーディングを覚えることに一苦労であったため、これ以上の応援歌を制作しても絶対に歓迎されないであろうと思いつつも、それでも溢れくる新応援歌の創作意欲は止められなかったと飯田氏は述懐している。

新応援歌の制作にあたっては、当時青春歌謡としてヒットしていた「あゝ青春の胸の血は」の歌詞=溢れる若さあればこそ 未来に向かい われら起つ・・・=というフレーズが頭に浮かび、校章に使われている「三剣」、校歌に歌われている「戸室ケ丘」と「相州健児」そして文武両道・質実剛健の校風を、その歌詞の中に盛り込むというコンセプトで、しかも歌いやすいように七五調を採り入れる。これが制作の大きなポイントであった。

最初に考えた歌詞は1コーラスがもっと長く、そして4コーラス位まであったと思われる。オリジナルの歌詞は現在ではどこかに埋もれてしまい、知リ得るすべはないが、応援歌としてはテンポよく、また曲をつけやすい長さにと、応援指導を頂いていた難波角三氏(高16回)に添削をお願いして、現在の3コーラスにまとめて頂いたと記憶している。

歌詞の内容は、1番で厚高健児(=若者)が目標に向って、新たに取り組もうという姿勢を現し、2番で熱い血汐であらゆる苦難を乗り越え、競争に打ち勝っていこうという姿勢を現し、3番で最終的に勝利を手にして、仲間と共に肩を組んで、凱歌を歌うというハッピーエンドなストーリーである。

さて歌詞はできたが次は曲である。今までの名曲は名曲として今度は曲の雰囲気を変えたい、新しい風を吹き込みたいと考え誰に曲を頼めばよいものであろうかと・・。悩んだ末に同期生の応援団総務部長であった篠崎俊二氏(高20回)の義理の兄君である大貫紀良雄氏(高5回)を紹介され、同氏にお願いすると快く引き受けて頂いた。そうして、いろいろな苦労の末に出来上がった作品が現在の応援歌「健児は起てり」である。

リーディングも従来とは趣を変えてスマートなものにしていただいたためか、当初イメージしていた以上に素敵に進化していたようだ。また歌詞も作者の手を離れて一人歩きをし、乗りの良い曲とリーディングの良さで、瞬く間に団員の心を捉えてしまった。あれから、かれこれ半世紀も経つのに全く陳腐な感じがしない。また、この年の野球部は大変に強く、県大会ではベスト8まで勝ち進み、対戦した法政二高には惜敗したが、大いに応援席は盛り上がり、もちろん応援歌「健児は起てり」の出番も多かったと飯田氏は回想していた。リーディング考案は、長嶋克佳氏(高19回)である。

ちなみに、「健児は起てり」の文法的意味は、「起て」に完了終止形と存続の意味を持つ助動詞「り」をつけて起ちあがった、起ち続けているという二つの意味を持たせているそうである。

10. 応援歌「若き覇者」

1967年(昭和42年)、夏の高校野球大会の組み合わせ抽選会が終了した頃、応援団幹部の有志が、難波角三氏宅を訪問した。

その理由は、その年の厚高野球部は近年では珍しく強いチームに鍛えられている。そのために、今回の組み合わせではベスト8の準々決勝進出の可能性があり、そうなると法政二高と戦うことになる。

法政二高は全国優勝も果した強豪であり、応援スタイルも大学と同じである。野球の試合は負け戦であることは承知の上だが、応援においては何としても勝ちたい。その為の応援歌を、是非とも作って欲しいとの要望であった。

この要望を聞いた同氏は、歌詞の中に具体的に相手校「法政」の名前を入れ、 「戦わんッ」、「破れッ」、「打ち砕けッ」、「倒せッ」と自軍チームの士気を大いに鼓舞するような応援歌を、一週間程度で制作したそうである。

この新応援歌「若き覇者」は、今までに同氏が制作した応援歌とは一味違い、現代的な感覚であった。しかしながら、新応援歌の初めてのお披露目であった法政二高との試合には、下馬評通り惜敗してしまった。

厚高との野球の試合には勝ったが、この自分達を「打倒」する連呼の厚木高校の応援歌を聞いていた法政二高の応援席の心境は。

当初は「相手を倒す」2番の歌詞だけであったが、相手がいない場合でも、この応援歌を歌いたいとの幹部の要望もあり、1番の歌詞を追加作成した。当時の厚木高校応援団の、打倒法政二高の意気込みに燃えた応援歌であったが、現在では歌われていない。リーディング考案は、長嶋克佳氏(高19回)である。

11. 応援曲「ラランカラン」

   制作 1967年(昭和42年)
    曲  童謡ピクニック(スコットランド民謡)
    詞  萩原 英一

1966年(昭和41年)度、厚木高校応援団リーダー部長であった長嶋克佳氏(高19回)は厚高を卒業後、法政大学へ進学した。又同大学に進学後は応援団に入団し、後輩の指導のために母校をしばしば訪れていた。そして後輩に応援指導を行なう中で、吹奏楽部の演奏と、学生の口笛・手拍子のみで講成されている法政大学の学生歌「ラランカラン」を参考に、厚高応援歌「ラランカラン」を制作した。これは童謡ピクニック(スコットランド民謡)のメロディーに、吹奏楽部の演奏と団員の口笛と色紙で構成され、色紙を使用しての人文字を表わすユニークな応援歌であった。特に口笛のみの応援曲などは他校に例がなく、相手席から見る光景は、さぞかし楽しそうであり色紙を持つ応援席はカラフルであったに違いない。リーディング考案は、長嶋克佳氏(高19回)である。

12. 応援曲「ジェンカ」(レットキス)

   制作 1967年(昭和42年)
    曲  ラウフ・レティネン(フィンランド民謡)
    詞  永 六輔(日本語詞)

フォークダンスのジェンカとして、一般的に親しまれている曲に合わせて踊る応援曲である。野球で大量得点をした時に、幹部達がリーダー台の上で縦一列に並び、前の相手の両肩の上に自分の両手を乗せ、左右の足を交互に斜め前横に軽く蹴り上げたり、両足を揃えて前後にステップを繰り返しながらメロディーに合せて踊るスタイルである。不器用な幹部達がチグハグに、また軽妙に踊る姿は、応援席から思わず笑いが起きてくるユーモアがあり、楽しい雰囲気がある応援曲であった。フォークダンスであるので、リーディング考案は特別にない。

13. 応援曲「栄光のマーチ」
14. 応援曲「勝利のマーチ」

1981年(昭和56年)初夏、吹奏楽部に所属していた鈴野喜一郎氏(高34回)は、応援団の顧問でありクラス担任でもあった小泉純一先生(高26回)から呼び出しを受けた。そして「今年の野球部は近年になく強いチームに仕上げられている。そこで、新しいタイプの応援歌を作り、野球部を応援をしたいと思っている。ついてはその応援歌の制作を鈴野君にお願いしたい。新しい応援歌はメロディーや歌詞よりも、厚高を連呼できるような応援曲タイプを2曲ほど望んでいる。締め切りは夏の大会に間に合わせる為に、また応援団のリーディングの考案や練習もあるので、期末試験の前までに作って欲しい」と言われ、新応援曲制作を依頼された。

この依頼を受けた同氏は、早速応援曲の作成に着手した。二つの応援曲の作曲そのものは意外にもスムーズに進行したが、楽器のパート別に楽譜を作り上げる作業の方が、時間が掛かり大変であったそうである。そのために、期末試験対策が十分にできず、試験の結果は惨憺たるものであったと同氏は反省していた。しかし新応援曲の完成後、小泉先生から「鈴野にも、取り柄があるもんだな」と婉曲に褒めていただいたことを、今でも素直に「うれしかった」と述懐している。

また同氏は同級生であり応援団のリーダー部長であった三宅彰氏(高34回)や同じく旗手部長であった土屋宏氏(高34回)とは懇意で、その関係で野球応援や昼休みの応援練習など、応援団の大変な毎日を、誰よりも近くでビックリしながら見ていたそうである。そして当時は何しろ「泣く子も黙る、あの応援団」と言われた最精鋭のリーダー達が私の拙い出来栄えの応援曲のリーディングを考案し一生懸命に指揮をとってくれた事に対して、今でも大変ありがたく感謝の気持で一杯ですと語っている。

重い楽器を抱えて、神奈川県内の野球場を野球部応援のために駆け巡ったあの頃は、今でも同氏の貴重な青春の思い出となっているのであろう。リーディング考案は、「勝利のマーチ」は赤堀圭志氏(高33回)、「栄光のマーチ」は三宅彰氏(高34回)である。

15. 応援歌「精鋭の歌」

1982年(昭和57年)度の新幹部が選出されると応援団内部では、その年は厚木高校創立80周年の記念の年でもあり「応援団の歴史に残ることがしたい」という機運が高まってきた。この機運は新応援歌をつくろうという形になり、先ずは新応援歌を一般に公募した。しかしながら一般公募では「コレだ!」という作品が無かったために自分達で作ろうという事になったそうである。

幹部同士の話し合いの結果、先ず初めに「曲」を作るという事になり、幼少の頃よりバイオリンの英才教育を受けてきた同期生が誇るミュージシャンで、編集部長でもある鴨川哲也氏(高35回)に曲の制作を依頼した。そして、完成された曲を幹部仲間が団室に集まり、同氏が「手塩にかけた汗と涙の結晶」の曲であるにも拘らず、好き勝手放題に意見や提案を出し合い、少しずつ曲としての体裁を整えていった。

このようにして出来上がった曲に、応援団長である川上勝士氏(高35回)が歌詞を担当し推敲を重ねながら先輩達の意見を聞いたり、国語科の先生方に修正をお願いしたりした。この歌詞の中の「覇権」という言葉があるが、これに関して、足立原先生からご指摘をいただいたが、最終的に「君達の中で違和感がなければ、理解する」との答えであった。

応援歌の曲目については、色々な意見が出されたが、最終的に会計責任者である宮澤辰之氏(高35回)が発案した「精鋭の歌」に決定された。

リーディングはリーダー部長であった木村將弘氏(高35回)が担当し、一見して大きく豪快に見えても、体力的には無理のない省エネ型のリーディング制作を心がけたそうである。これは合宿等でOB諸兄等からシゴかれた場合に、心身共に辛くないようなアッパレな配慮をしたということである。

一般団員への披露は、夏の団員練習で行なった。リーダーは、上級幹部である上野浩二氏(高35回)が務めた。又この新応援歌「精鋭の歌」を一般団員に早く覚えてもらうために学校と音楽部のご理解とご協力を得て、連日昼休みに校内放送で流す事を行い成功をおさめた。

この応援歌「精鋭の歌」を制作した当時の応援団幹部達の雰囲気を、副団長であった谷下功洋氏(高35回)は次のように述懐している。


【今にして思うことは、この応援歌は多分に東京六大学応援団、特に法政大学応援団の影響を否定できない。それは、我々が当時から土・日曜日に東京六大学野球の学生応援席に行くことを厭わない応援団フリークであり、敬愛申し上げていた故長嶋大先輩より、直接薫陶を受ける機会に恵まれていたからであろう。先輩諸兄へのお披露目をした際に、長嶋大先輩が法政の応援歌「若き日の誇り」に似ていると苦笑されていた事を今でも思いだす。】

16. 「厚高音頭」

1957年(昭和32年)度、厚木高等学校応援団団長であった久野雅覧氏(高10回)は、駒沢大学に入学と同時に同大応援団に入団した。その応援団活動を通じて、応援には蛮声を張り上げて歌う固苦しい応援歌や、厳しい拍手の統一性だけを求める規律の応援だけではなく、ふと人々の心を和ませる口上入りの「○○節(ぶし)」や「△△音頭(おんど)」が多数あることを知った。

この「節」や「音頭」を厚木高校応援団にも伝えようと考え、数多くの大学で歌われている「節」や「音頭」を参考に、あの「東山 三十六峰 草木も眠る丑三つ時・・・・」で始まる口上入りの「厚高音頭」を考案した。

この「厚高音頭」を、後輩である難波浩氏(団長・高11回)や岩堀紀男氏(副団長・高11回)に伝授したところ、岩堀氏が率先して会得し期待以上のスケールの大きい豪快な「厚高音頭」に仕上げてくれたそうである。

当時の厚木の町には娯楽的なものが少なかったため、駅伝応援の為に本厚木駅前等で「厚高音頭」を演舞すると、黒山の見物人ができて、ヤンヤの拍手喝采を受けたということである。

17. 「応援団節」

時代の流れを問わず、およそ学校と名の付くところには、その学校の存在理由や学生気質を表わす「隠れ歌」が必ず存在し、歌われている。もちろん我等が厚高にも、そのような「隠れ歌」自体は存在していたが応援団に当てはまる「隠れ歌」はなかった。そのために、色々な学校で歌われていた「隠れ歌」をヒントに制作されたのが、この「応援団節」である。

応援団の厳しい合宿や練習に明け暮れる幹部の素直な気持や、片想いの彼女に対する純真な気持を表現したこの歌は、厚木高校応援団という同じ釜の飯を食った者でしか分からない、男心の切なさと物悲しさを、心から表現しているものだと思う。

  • 日本の応援の始まりについて

日本において応援団と呼ばれるものは、一説には1890年(明治23年)に旧制高校の運動部の対抗試合において味方の選手を励ますために、初めて正式に組織されたと言われている。

その対抗試合とは、隅田川で開催された旧制一高(現東京大学教養学部)と旧制東京高等商業学校(現一橋大学)との間で行なわれた第4回ボート・レース大会で、一高が白旗を、高商が赤旗を持って応援団が対抗した。その応援の時に、一高生の応援団によって、初めて応援歌が歌われたとも伝えられている。

また、他の説では1903年(明治36年)に同じく旧制一高の学生が横浜の外人クラブ(現横浜カントリー・アンド・アスレチック・クラブ)と外人居留地の運動場で行った野球の試合において、一高生が行った応援であると言われているが、果たしてどちらが最初であるかは、今となっては定かではない。

なお余談ではあるが、東京大学の前身である第一大学区第一番中学校で、日本で初めての野球が導入されている。その証として「日本野球発祥の地」の記念碑が神田錦町の学士会館敷地内に「東京大学発祥の地」の記念碑と共に建てられている。野球導入は、1872年(明治5年)であり、このような事実が東京大学が東京六大学野球連盟に加盟している大きな理由の一つにもなっているそうである。

1903年(明治36年)には早慶戦が始まり、両校の応援団が熱い応援を行ったが、当時の両校の応援団は現在のように統制された規律ある組織ではなく、野球試合の当日に応援席に陣取った一般の観衆に、扇子を振りかざして拍手をさせる程度のものだったと言われている。

しかしながら、その後の両校応援団の試合に対する加熱ぶりは激しく、それが原因となる暴力行為が社会問題となった。その為に早慶戦の試合は1906年(明治39年)から約20年間にわたり禁止され、1925年(大正14年)に漸く復活されて現在に至っている。

【このように応援の始まりは歴史が古く、これまでも色々な紆余曲折があったが、現在では応援の方法にも各種の工夫がなされ、ブラスバンド部やチア・リーダー部も含めて構成される応援団になってきた。

太鼓や扇子しか使わなかった昔と比べて、応援も明るく華やかなものとなってきたが、ひたすらに母校や我が選手を応援するという応援団の本質は、いつの時代でも不変である。厚木高等学校応援団は、残念な事に現在は廃止されているが我々は、この不変の精神を次世代に是非とも伝えていきたいと思っている。それが我々に課せられた責務であると確信している。難波記】


<引用文献>
○立命館大学 言語文化研究14巻2号「応援団について」
○ベースボールマガジン社 東京六大学野球連盟90周年シリーズ
 「東京大学野球部」赤門軍団の軌跡

「応援」の意味

誰れもが 誰かを「応援」し
       誰もが 誰かに「応援」されている

2013年(平成25年) 作家 重松 清

神奈川県立厚木高等学校 応援歌80余年史

2017年(平成29年)10月1日

 制作 田中 文雄(高20回)
  協力 飯田 政孝(高20回) 阿部 洋 (高22回)
     山口 薫 (高29回) 谷下 功洋(高35回)
  監修 難波 角三(高16回)

編集 厚木高等学校応援団OB会


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