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校歌

校歌制定 昭和6年1月20日
(昭和15年4月23日文部省認可)

神奈川県立厚木高等学校校歌 作詞 荒川義治作曲 深山 桂 戸室の丘辺旭日さして三剣光り輝く見ずや阿夫利の高嶺相模の流れ高きに憧れ長きを慕う相州健児 ああわが友文化の流れ渦巻くところ御国の理想いかしく立てり剛毅の櫂に和平の舵にいざ国進めん雄々しく猛く相州健児 ああわが友我等は若し我等は強し我等の前途光明みてり思えば昔御国の為に尽くせし祖先の功は高し相州健児 ああわが友

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ブラバン 歌唱付き(電子)


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指揮:阿部 洋(応援団OB会・高22)


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指揮:山口 薫(応援団OB会・高29)

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  • 校歌・歌詞の由来(作詞者 荒川 義治)


「創立六十周年記念誌」(昭和38年3月1日発行)より抜粋

歌詞の生まれるまで(日記より)

10月25日(昭和3年)、定例職員会議の席上、校長(第4代藤井先生)から、今上天皇即位大礼の記念事業の一として校歌制定の議が出た。国語、漢文担任教諭の中から、宮沢兵吉、杉本健夫の両氏と私の3人がその委員として校長の指名を受けた。校長は更に次の諸点を明らかにされた。

一、 歌詞の内容として、天然の景勝を歌い込むこと、質実剛健の主張を入れること、青年らしい覇気を含むこと。
二、 以上の内容を最もよく表現するためには、歌詞を部外者の手に委ねることなく在校生徒、校友、現職員の中より募集すること。
三、 応募作品中優秀な幾篇かを選んで、東京帝大文学部の藤村作博士にお目にかけ、その校閲をいただいて正式に決定すること。
というのであった。斯くて12月下旬までに職員3篇、校友1篇、在校生137篇の応募を得た。

1月4日(昭和4年)、委員の手で審査していた原稿の中から職員3篇、校友1篇、在校生18篇の22篇を歌詞候補として予選した。

1月17日、校長は予選を経た原稿を携えて藤村博士の校閲お願いのため上京。

はじめ3月の卒業式には間に合うかもしれぬという淡い期待ももたれていたが、夏になり、秋になりその年も暮れて雪が降り桜が咲き、1年以上も経ったが何の沙汰もない。そのうち杉本委員は川崎中学校へ転任するし、夏休みにはなるし、休暇が終わって登校した9月の新学期には藤井校長の転任も伝えられ、校歌の運命もこれまでかと気づかわれるに到った。黒土校長(第5代)が後任として着任された。

10月24日(昭和5年)、1通の大封筒が配達された。藤村博士から送られた待望の歌詞だった。これが先にお目にかけてあった原稿中の私の拙作を博士が校閲し、正式に歌詞として選定して下さったものであった。実に2年の歳月を経ている。

11月1日、校長は藤村博士にお礼のため上京(謝礼金百円)。この日東京日々新聞厚木駐在記者来校し、校歌々詞の決定を聞き内示を申入れる。山賀教頭がこれを示された。

その後、曲は幸い深山桂氏の手によってすばらしいものが出来上がった。その顛末は同氏が執筆される筈。

歌詞の内容について

第一節、秀麗絶佳な教育環境の中から大山と相模川とを採った。創立当時漢文担任として在職された明治の漢学者大堀萬里先生の著「厚木八景」を見ると、当時の人士が如何にこの美しい山河の景勝を賛美し、感嘆し、憧憬をもっていたかがうかがわれる。これが若き学徒の眼に映じ、心に沁み透ってやがて立派な校風となり、美しき伝統育成の大きな力となったことに想い到って冒頭に掲げた。

第二節、剛毅と和平とは古来からわが国の民心作興理念の一つであったが、質実剛健を信条とした我が厚木中学(高校)教育の精神であった。この伝統に育まれた若き学徒が知・徳・体の健全なる発達を遂げ、やがて邦家有為の材となって社会の文化に貢献する本懐を強調した。

第三節、純真無礙正を履んでは一歩も譲らず、一たび熱しては燎原の火と燃えて、如何なるものをも焼き尽さずんば止まぬ学徒の若き情熱と気魄とは、かって令名を天下に謳われた祖先の遺芳に更に光輝を添うべく勇往邁進するぞとの堅い決意を叙した。<以下略>

  • 校歌作曲について(作曲者 深山 桂)


「創立六十周年記念誌」(昭和38年3月1日発行)より抜粋

私は厚木高等学校の前身厚木中学校に、音楽教師として、昭和5年4月より昭和15年3月まで10ヶ年間、当時の県立平塚高等女学校勤務の兼務として就任していたのであります。赴任した当時の校長は藤井校長、この方は県庁におられ厚木中学校長として来られた方で、この頃中学校は2学年まで「音楽を課することを得」という法令のもとであって、課さない中学校が大部分であった。というのは、当時は今とちがって音楽の教師は実に尠なく、殊に男の教師はわけても尠なかった時代であったことと、今の様に音楽が重要視されなかった時代でもあった。<中略>

私が赴任して来て嬉しく感じたことの一つとして、ピアノがあったことだ。それも「グランドピアノ」で、当時中学校で余程進んだ学校でも「アップライトピアノ」(竪形)が関の山だったから。只一つ反面に千余名の生徒諸君に対し「校歌」がまだ無い淋しさをも感じて、赴任早々、学校長藤井氏及び最寄りの教師にも進言した。幸に何れも同調してくれた。

ところで、すぐ歌詞というわけにも行かず、それまで持っていくには何回か話し合いが持たれた。これが昭和3年1学期に始まった運動だったが、惜しい事に間もなく藤井校長は北海道に転職になり、このあとに来られたのが奇縁といわんか、私が在住していた県立平塚高等女学校長黒土氏だったので、校歌の話も加速度に進んで歌詞の募集に着手した。それは昭和3年2学期であった。応募は厚中卒業生、在校生及び職員という事だった。それはその学校の校歌の歌詞は最も真髄をうがった実感のあふれたのが最良であって、生命がこもっているのは誰もうなづけるところ勿論である。

応募者は何れも匿名であった。集まったのは、東大の藤村教授に選出を依頼し、結果として1席2席がきまって、私に作曲を依頼された。あくまで匿名として置く方針故、私の作曲がすんで楽譜を印刷する際にもこれを厳守して、作曲者の名だけ記入して置いたが。

県下の有名校、厚木高校も己に60周年、その記念誌発行に際し、当時の経緯を回想し、その氏名をはっきり私より発表することにした。

その人は誰あろう、第1席は前厚中敬慕の的の教師、荒川義治氏、第2席は宮沢氏であった。昭和5年2学期の中頃初めて前記由来の歌詞を渡された。それは、あの「戸室の丘辺旭日さして・・・」の雄渾限りなく、而も情緒、希望に満ち満ちた名歌詞であった。

私はこれまで数多く作曲したが、この様に情熱の湧いている歌詞は直覚的に胸を動かしたのは尠ないのを感じ、同時にふさわしい曲を作ることを心に誓って、先ず歌詞の暗誦、吟味を始め同時に、学校、生徒、環境を織り交ぜた実感に来る日も来る日もひたった。

私は戸室の丘にそそり立つ学び舎、厚木郊外の田圃から、あの坂道をあえぎ登りつめた時、東空を仰いでは「戸室の丘辺旭日さして」の実感をひとり歌に味わった。この感をあじわうこと月余、毎週同じ行動を、私は繰り返して作曲に対する霊感を会得した。

この「旭日」に対する私の行動が作曲の動機となって力強く旋律線が湧いて来た。<中略>

今、古いノートの原作、下書きを眺めた時、当時の感がまざまざと楽しい感慨となって湧いて来る。調子ですが、最初はこれをト長調にと思ったが、中学生の変声の事を想い、下級生の時からしっかり歌わせる事が大切であるから声域の点から、ヘ長調にした。<中略>

完成したのは昭和5年2学期末で、3学期早々より一斉に練習を始め、同年度卒業式には喜びのうちに高らかに第一声の誉れを残したのであって、校歌楽譜印刷は昭和7年5月1日となっている。

爾来30余年、厚木高校のシンボルとして高唱されているのは無常の光栄と思うところであります。


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