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神奈川県立第三中学校創立略史

=神奈川県立第三中学校 戸室ヶ丘に建つ=

厚木高校の前身である神奈川県立第三中学校が、厚木市の戸室の台地に開校した経過は、『神奈川県立第三中学校創立略史』に詳細に記されている。

明治33年(1900年)当時、第三中学校の建設予定地は、同5月30日文部省告示により高座郡海老名村と定められた。

しかし、海老名村では予定地の校地6千坪を取得するのに、様々な障碍・困難・難渋のなか、時が経過していた。県への土地献納期限は明治34年3月31日、開校は翌35年4月と決定されていた。

このような海老名村の状況を視察した愛甲郡では、一度は諦めた南毛利の地への誘致運動を再度決意したが、それは、明治34年1月24日、郡長・原田千之介が地元有力者を集め、愛甲郡への移転運動を諮ったことに端を発する。

そして、それからほぼ2ヶ月後の明治34年3月12日、第三中学校の位置を海老名村から南毛利村に改めるという文部省告示をもって決着をみるのである。

『神奈川県立第三中学校創立略史』は、この間の経緯を主に記録したものである。

極めて限定された困難な時間の中で校地確保、その買収交渉、寄付金による資金調達、県当局や県会との折衝、あるいは海老名村との軋轢(あつれき)等々、日を追って緊張度を高めてゆく迫真の筆致は、執筆者・霜島久圓その人の心の高鳴りをそのままに伝えていると思われるのである。

『神奈川県立第三中学校創立略史』はA5版、8ページからなる小冊子である。活版印刷なので、ある程度の部数は印刷したと思われるが、現在は厚木高校には唯1部しか残存していない。

校閲者・愛甲郡長原田千之介は、明治38年、鎌倉郡長に転任したことが、『愛甲郡制誌』に見える。

起稿者・霜島久圓<天保7年(1836年)〜大正8年(1919年)>は、戸室村の領主興津氏の名主をつとめた旧家の11代目に当たる。久圓、31歳の時、明治維新を迎える。歴史の激動期を体験した久圓は、その後半生を自由民権運動や地方行政・教育・農業改良などに生涯を傾けた。

明治12年、第一回選挙で県会議員。13年6月、国会開設要求請願書の総代14名のうち1名に名を連ねる。明治15年2月、「相愛社」副会長、同7月自由党入党。県会議員は明治18年まで努める。

厚木中学校は、久圓の屋敷のすぐ西側の台地上に開校した。久圓は大正8年4月12日、84歳の生涯を閉じた。墓地は厚木高校の北側の浄雲寺にある。

=神奈川県立第三中学校創立略史=

本稿は、明治32年(1899年)12月24日、神奈川県会に於いて第三中学校新設の建議ありしに起因す。

然れども、設立位置の点に於て、各郡意見を異にす。即ち其の方面たるや、中郡は平塚に、高座郡は藤沢茅ヶ崎に、愛甲津久井二郡及び高座北部は厚木町附近に建設せんとし競争激甚、鎌倉及び三浦郡之に()ぐ。県庁は明治33年(1900年)4月、厚木附近海老名村、南毛利村、妻田村、依知村の内各候補地を視察す。

同月25日、臨時県会は厚木町附近と決議し、同5月30日文部省告示第152号を以って高座郡海老名村に神奈川県第三中学校を設置し、明治35年4月より開校認可のことを告示せらる。因て、同郡の有志者は敷地凡そ6千坪を献納せん為拮据経営(*1)する所あり。

ここに、明治34年(1901年)1月24午后3時、天気晴朗寒梅将に(ほころ)びんとする日、従愛甲郡長原田千之介氏、当時の在職郡書記杉山清、井上潤之助、霜島久圓、郡視学(*1-1)志賀親友等を其の邸に招集し、郡長曰く、本県第三中学校を高座郡海老名村字河原口に新設するは既に文部省告示の如し。然れども、高座郡より寄付すべき敷地其の他の物件に就いて種々に複雑せる事情(わだかま)りて其の進行を妨ぐるの状態あるものの如し。(したがっ)て県庁の命令する期限即ち本年3月31日に至るも其の寄付の目的を完成すること能はざるべし。然れば、本郡に其の位置を移転せしめんと欲せば、必ずしも不可能と云う可きにあらず。若し本郡に移転せんとすれば、郡民は之を引受くべき勇気の存するや否や、と諮問する所あり。列座謹聴黙然(*2)たり。(ここ)に於いて霜島久圓(おもむろ)に答えて曰く、『本郡は先に明治32,3年の頃(がい)中学新設(*3)に関し有志者大に運動の労を執り、厚木附近に新設を希望せしも、県会の決する処高座郡海老名村地内に設置することに立至りしも、猶本郡に於ては約2千有余円を消費せり。斯くの如き実況なれば本郡の人心として我郡へ位置を引受くるは有志者の企望する所たるや論を(また)たず。要するに、第一の急務は現に敷地に係る場所の選定是なり、奈何と。

郡長曰く、『新設敷地の選定地は凡そ6千坪を要するを以って本官の考案にては、南毛利村大字戸室大六天を以て目的地とす。然れども此の地所、一段歩の買収代金は凡そ幾何(いくばく)なりや』

霜島曰く、凡そ1坪に付金5,60銭の見込みとし大差なからざるべしと。井上曰く、1坪50銭は少しく高価なるべしと。霜島曰く、今回買収せんとする敷地は、一時に6千坪を得んとする者なれば、個人間の売買と異る方便として、買揚代金の多少を論ずべき場合にあらず。殊更斯る急務に臨みて、衆人の合意せざる場合を奈何せん。(もっと)も(*4)選定地にあたる地主を集合せしめ、諄々説論し、(すべか)らく徳義に因らしむべき必要あるものと論究す。

列座面々曰く、概目(*5)予想相立つ上は本郡各有志者に謀るは徐々の運びに附するも可ならん。

郡長曰く、是より郡内資産家に謀り寄付金を募るの必要あり。先ず佐野氏を訪問すべしと。直ちに人車(*6)を命じ出発す。杉山郡書記之に随ふ。同家に至り佐野父子に会見す。第三中学校は既に高座郡海老名村に設置すべき事、文部省告示の如し。然れども同郡内苦情の存するもの一にして足らず。故に()し我郡へ其の位置を変更せんとするときは、当家は率先者として寄付金を請ふ必要あり。金額は凡そ1千円の予定なり。諾されんことをと。

ここに佐野市郎氏敏なるも、(けだ)し(*7)躊躇する処あるものの如し。

郡長曰く、さきに高座郡海老名村敷地検分の当時、知事以下派出、当家一泊に際しては既に大気炎、其の言や、()し本郡に敷地を変更し新設のことあらんか、6千坪は依知村地内に一手の寄付は辞せざるべしと。其の言や、日尚浅く舌根未だ乾かず、即ち、1千円の寄付は快諾あるべきを信ずと。時正に午后11時を報ず。同家を出発し帰途南毛利村に迂回し霜島久圓邸に到る。夜半門を叩き急を報ず。明日各地主を集合せしめ村長山口泰をして相談に預からしむるの外諸件を内議し、郡長帰邸す。寒風凛冽(りんれつ)、鶏鳴を聞く。

同25日午前第8時、原田郡長、杉山郡書記、霜島家に到る。山口村長、各地主漸次(*8)集会す。蓋し中学新設敷地6千坪の面積に該当すべき段別、凡そ2町歩(*9)、其の段金価額を150〜60円の範囲を於て買収を望む。各地主は200円を主張し、為に決せず。時に郡長、急事接し午后3時過ぎ郡役所に帰庁す。杉山郡書記、郡長の意向を次ぎ160円迄買収の旨を談ず。地主180円を主張す。結局165円に増価し、午后4時帰庁、地主一同散会す。

翌26日、双方再会、買収価額決定。字仲原を段金165円、字大六天を170円とし双方合意す。これにより、買収地所仮契約を締結し、杉山郡書記、午后3時復命す。同夜9時、霜島郡書記捺印済み連名簿を携帯し郡長に進達す。郡長は直ちに県庁へ敷地買収仮契約済みの旨を打電し、()いて(*10)追々(*11)庁議如何、問合(といあわせ)電信を発し、爾後(じご)(*12)県郡往復通信(すこぶ)る頻繁なり。是より先郡長、厚木町有志者を集め、県庁()し本町近接の南毛利村戸室の敷地を指定さるるときは、本町は寄付金2千円の募集を念頭に置くべき旨趣を予談したりき。

翌27日、郡長特に杉山郡書記を出県せしめ、李家書記官に万般を具状(*12-1)せしめ、敷地献納寄付金募集順序を予め陳状せしめたり。

2月17日、周布本県知事(*12-2)、李家書記官一行来郡、敷地を検分し、即日帰県、敷地内に掘削す可き井水の湧出如何を試みよとの急報あり。直ちに夜を徹して掘削せしめたるに、同18日午前7時に至り、其の水脈混々噴出せるを認め、県庁に電報す。

同19日、霜島郡書記は、高座郡北部の状況視察の為、座間、麻溝、新磯の有士を訪問して帰庁す。

同21日、更に座間、新磯、其の他同郡寄付金の情況視察を遂げ、星を戴き帰宅す。又翌日、同郡寄付金不成立の情態を詳悉(*13)し、郡長に復命す。一方は、柳川郡書記、同郡南部を視察せしに、海老名附近有馬の状態たる若干の金額を三ヶ年賦とし既に予定しあるのみ他は、寄付金の見込み無く、(すこぶ)る冷淡にして意気消沈せりと復命す。

同22日、郡長は、我郡公会堂へ郡会議長、町村一同を集会せしめ合議を()らす。(*14)。(そもそ)も(*15)、本問題たるや、客年(かくねん)(*16)文部省告示第152号を以て第三中学校の位置は、既に高座郡に指定せらる。然るに同郡は敷地献納の設備及び同郡の負担すべき応分の責務諸般を探検するに、前途甚だ覚束なし。依て本官は、来る27日迄に本県へ出頭し、我郡の協同一致事に亜当らんとするの情態を本県下に発表し、百年の大計を図るや、此機を逸す可からず、本館の微衷(びちゅう)(*17)洞察を望む、と。弁明流暢、談(すこぶ)る厳なり。聴者謹聴す。

同24日午后、本県より佐野市郎氏、帰郡して曰く、(かね)て(*18)本県周布知事と李家書記官が杉田観梅の約ありて、余も亦此行に加はる。談、偶々本問題に及ぶ。(すこぶ)る有望なりと伝ふ。

然るに此日、橘川、石川両氏外三名、郡長を訪問し、位置を妻田村に変更する事は、該校用水欠乏等の(うれい)いなく、高座郡も通学上便利、本郡に於いて同意無かるべしと云う。郡長之に答えて曰く、妻田村の位置は高座郡に近接するも、相模、中津、小鮎の三川に関聯(かんれん)し、洪水に臨めば至難且つ平時と(いえども)も、通学上架橋新設の必要起り、本郡より寄付する金額多大の増加を擁し、郡民の負担に耐へざる処なり。戸室の位置は高岳にして、用水欠乏の感は未だ地質学上経験浅薄、実地を踏査せざる謬見なり。その丘下を見れば湧水混々たり。その地質に達せしむる穿井(せんせい)(*19)を造れば需要すべき用水は、優に余贏(よえい)(*20)あること、本月18日試掘上明らかなり。因て位置変更の議は中止すべしと論断す。

同25日午前9時、桑原視察官、永島第三課属、本郡長を来訪し、のち高座郡河原口に至る2時間を経て本郡長を再訪し、本郡の状況を詳悉調査し、午后4時帰県す。此日、郡長は妻田村の敷地論に付し、暁天杉山郡書記をして佐野家に派遣せしめて曰く、位置変更の動議は県庁の見込みに任す。然れども、位置の変更は蓋し全郡の平和を攪乱(*21)し、郡内11ヶ町村は(あたか)も南北の争闘を見るが如く、其の弊や、終に此事業を破壊し、日夜の苦心を空しく水泡に帰せしむるに至らんとの意を告げしむ。午后に至り、更に該方面有志者を召喚し、今日に至り位置変更問題は本郡一致協力の勢力を割き、(いたずら)に高座郡をして其の虚に乗ぜしむる拙策と謂う外、(ごう)も(*22)益する所無かるべし、速やかに中止すべしと厳達したり。

一方に於ては此の頃、霜島郡書記、高座郡の状況を視察に日を委(ゆだ)ね、(つらつ)ら(*23)以為(おもえら)く(*24)、同郡規定の位置に関しては、郡民の思想甚だ冷淡にして、其の郡内の寄付金募集等の如きも茫然としてみるべきもの無きのみならず、現に其の敷地に係る宅地、275番地望月力十郎、273番地三橋木太郎、後見人望月久四郎、302番地本多岩吉、321番地飯島龍太郎を慰問し、苦楽に関する奈何を問ふ処ありにし、其の6名は(とも)に(*25)頭を並べて曰く、甚だ当惑の外なしと。就中(なかんずく)(*26)、本多岩吉たる老父の如きは、厳寒激烈を(おか)して毎朝沐浴神仏に誓ひ、宅地非買収の安全を祈念する数旬日に及ぶと。其の苦悩の情、推して知るべし。此の6名は、宅地買収に係る被害は各々熱心に避けんと欲し、其の心情を(つぶさ)に(*27)県庁に報ずる処ありしと。

その翌日26日に至るや、県庁の議、(つい)に一変して海老名村の位置に関する準備を中止すべしと来電あるや、同郡の有志者は大いに激昂し県庁に出頭して、文部省告示の位置に対する準備を中止せしめたるを詰問し、或は神奈川県政友会支部に往来し(すこぶ)る騒擾(*28)する所ありと(いえど)も、(すで)に位置の変更は県庁の議定まりて、之を左右する事を得ずと云。然るに其の日没に至るや、高座郡の有志者、大島、山田、蜂須賀、仁村、桐生、佐藤等、本郡長を訪問す。蓋し、其の意のある処をしらず。時恰(あたか)も郡長不在に際し、面会を遂げずして退く。

同27日、李家書記官、郡長に出県を促す。杉山郡書記随行、出県せり。李家書記官、郡長に対し、弥々(いよいよ)(*29)第三中学は、其の位置を愛甲郡に指定替の趣旨を示し、従って敷地寄付の諸件を協議し、且つ本日午后高座郡の有志出県し、さきに指定の位置を今更変更の事あるは迷惑の極なりと其の中止を強請(きょうせい)(*30)して止まず、彼等今尚、横浜に滞在すれば郡長身辺(よろ)しく(*31)注意あるべしと。依て郡長は之を避け、第四課員増野清助の病気を問い、のち県庁に出頭す。

書記官曰く、今夜は滞在し知事に会見して、猶知事の本件に対する方針をも聞かれたしと訓達す。(よっ)て郡長は其の旅館に帰り、午后4時、杉山郡書記を帰郡せしむ。幾何(いくばく)幾何(いくばく)もなく指揮官より郡長へ、周布知事東京より帰庁あり、直ちに官邸に伺候すべしとの急報に接し、郡長直ちに赴き、書記官、視学官列座審議す。ここに書記官曰く、位置指定の変更上に就き本日出県したる海老名村の情態は、或は一の騒擾を惹起(じゃっき)するも計り難し、依て知事の決意如何を問ふ。知事曰く、唯決心の外なしとあり。之を以て一段落を告ぐ。(しこう)して、我が郡有資金の支出処分に就き評議す。書記官の考案は、郡より郡教育委員会に補助し、同会之を佐野教育会長に貸与し、会長之を中学敷地代として県に寄付するの手続きに拠るを以て至当ならんかと具申す。知事は郡より直ちに県事業に寄付するも差支(さしつかえ)無かるべしとの考案にして、彼此(ひし)(*23)講究結果、第一課員若林属を呼び、其の議を内務文部両省に交渉の為、翌28日上京を命ず。(しこう)して、郡長は午后7時半退席、新松楼に赴く。本郡役所よりは既に午后2時の発電にて、今夕海老名村の壮士団体出県せるに依り、郡長の身辺(もっと)も警戒すべしと報ずるありて、此際(あたか)も県属村上清太郎氏、郡長を来訪す。両人以為(おもえらく)(*32−2)或彼等暴挙に出て、新松楼を襲ふべしと顧慮し、村上氏の寓居(*33)長住町に至り泊す。

同28日午前第3次、卒然(*34)門を叩く者あり。村上氏、誰何(*35)す。書記官の使者なり。今朝4時、郡長、指揮官邸に来訪せよと告ぐ。因て郡長は午前4時、暗夜道を弁ぜず。(*36)、寒風凛冽、肌氷るが如し、伊勢山なる書記官邸に到る。書記官曰く、昨夜再度高座郡の有志者、知事・書記官を来訪し、哀訴甚だしく其の迫ること頻(しきり)なり。因て、今朝7時、書記官、視学官共、同有志者等を同伴彼地に出張、更に調査すべしと雖も其の目的を達することを極めて難事なるべし。故に愛甲郡は町村長、教育会、群会等、拮据経営準備を怠らざるべしと訓示す。郡長、其の意を領し百般の事務を概括し、午前6時15分の汽車にて帰郡す。頃日(*37)高座郡の有志者は哀願意の如くならざるを(うら)み(*38)、県官弾劾的陳状書を文部大臣に奉呈するが如き行動を為すことありと雖も、県庁は蓋し泰然自若たり。

3月1日、郡長は郡会議員、町村長其の他を我郡公会堂に招集す。其の来会者は、南毛利村長山口泰、厚木町長後藤宗七、玉川村長中村得治、小鮎村村長森久保竹美、三田村外五ヶ村組合長落合梅造、荻野村長森甚太郎、愛川村長染谷三郎、依知村長小林栄太郎、中津村長足立原方三、高峰村長伊従敏、煤ヶ谷村外一ヶ村組合長石川丑松、郡会議員・難波惣平、石井道三、渋谷常八、中丸重郎兵衛、落合清五郎、川井瀞、守屋森三郎、森豊吉、染谷三郎、岡本與八、小宮富次郎、霜島甚四郎、小金井為造、中村正造、山本泰一郎、外有士数名鳴り。郡長は去る27日、上県後に於ける庁議のある処を報告し、且つ高座郡役所は海老名村役場に宛2月27日付高庶第614号を以て、第三中学校敷地に関する寄付額の受書は提出せしと雖も、右敷地は県庁に於て実測の上指定せられたる区画に依り指定の期日、即ち2月24日迄に提出したる者と認められざるを以て、関係書類全部返付相成たる事実を報告し、諸般の都合を協議し直ちに郡参事会を開き、郡有財産支出の処分方法を(ことごと)く決議せしめたり。

是を以て、県庁に打電し(つい)て工事方法を講究(*38-1)し、建設委員等を選定し、町村長は予め各町村の寄付金募集の順序等に就き討議を尽くし、郡長、3月2日、杉山郡書記をして昨日の群参事会、郡有財産処分決議及び各町村の寄付金協定の状況及び其の寄付金額等を県庁に提出せしむ。此の日、佐野建設委員長は県知事来郡を歓迎し、知事は敷地枢要の点検を終え直ちに帰県さらる。

同4日午前第10時、書記官、視学官外3名、海老名村字国分及び南毛利字戸室の敷地再検分として来郡あり。而して、愈々(いよいよ)敷地は本郡に確定を示すに至る。因て建設委員5名へ其の確定を通告し、当夜郡衙(*39)の委員は祝賀の宴を開く。

翌5日午前9時、佐野委員長、郡長を来訪す。(つい)で中丸、渋谷、小金井、川井、霜島各建設委員、公会堂に会す。郡衙よりは志賀郡視学、杉山、霜島両群書記も来会す。即ち、校舎敷地高低切り均し、周囲の木柵工事請負方法を協定し、敷地買収費凡そ金4千円に付繰替の件、諸般を協定し、午后は七十八銀行(*39-1)に於て、談話会に至り、敷地買収代金等は暫時(ざんじ)(*40)地主に対し延利を付し、委員の金策調達次第仕払べきことに決し、工事受渡しは、入札法を以てし、献納敷地約6千坪、高低切り均しを第一着に竣工せしむべき方針並びに中学付近の通学道路改修事業等()(ここ)に確定す。

然れども、尚3月11日を期し、県参事会の必要あり。此議決如何は第三中学の位置を高座郡に定するか、愛甲郡に確定するか、両群競争の雌雄を決する終局の議会にして、両群の有志者運動(しきり)る激烈を加え、本郡に於ては必ず凱歌を奉せざる可らざるの計画を定め、同9日を以て、県下北部要路の県参事会員に早川耕造氏、小島仁之助両員に尚中央部は早川氏に(かね)しめ、南部に霜島久圓氏を派し、各員訪問交渉の事を定む。

依て、同氏は足柄下郡選出参事会員小沢衡平氏に、小田原町小西武四郎氏を誘い、之に赴く。然るに、偶々、同氏の母堂老衰にて容態(すこぶ)る危篤なり。翌10日、再会、其の要領を締結す。11日午前6時、小沢氏は主治医に命じ、母堂に「カンプル」注射を行はしめ、汽笛一声小田原を発す。偶々、郡長より電報到る。時正に午前6時20分なり。電報の要旨は(ケサ オザワヲ テヘトラレヌタメ ドウハンシテ ヨコハマヲ ノヘテウ オダワラヤニ ユクベシ)(*41)。如斯(かくのごと)くなれ共、小沢氏出発に後るること20分なりき。依て、横浜派出員に打電す。其の要旨(オザワシ タヘトラレヌタメ イデムカヘヨ)。又、郡長に返電す。其の要旨(オザワシ イマ タツタリ)。(ここ)に霜島は、横浜の安否如何を憂慮し、派出員に打電す。午后0時16分横浜派出員より桜木局発電(オザワ キタ アンシンセヨ)。此報到るや、霜島、帰郡の用意として護身用ピストル及び仕込杖両器を購求して携帯、小田原出発、帰途に就く。頃日浮説あり、高座郡の壮士、横暴を極め人心恟々(きょうきょう)(*42)、夜中屡々(しばしば)我郡内に潜入し、(ひそか)に狙撃謀ると。警官の警戒や(すこぶ)る厳り。薄暮無事帰郡す。

之に先だち、横浜派出員より郡衙に来電、其の要旨(タタカイタツタ アイコウバンザイ)。若干の時間を経て其の派出員志賀郡視学、山本県会議長、中丸建設委員、後藤厚木町長、早川運動委員以下多勢、勇気凛然、帰来の人車疾走飛鳥の如く一同帰郡し発生大喝、愛甲郡万歳を唱へ、百雷一時に落つるが如く其の意気軒昂、当たるべからず。即時、郡長邸に宴を開き午后11時散会す。

翌12日、文部省告示第48号を以て、神奈川県第三中学校の位置は、高座郡海老名村とあるを、愛甲郡南毛利村に改むると発表せらる。同日、敷地の周囲に第三中学校建設敷地の標杭を樹立す。同15日より、敷地方約150メートルの傾斜3メートル切均(きりならし)しに着手す。郡内の人夫群集、黽勉(びんべん)(*43)昼夜之に従い、県費1800余円を下附せられ、周囲の木柵表裏二門の造営等日数僅に15日を要し、(ことごと)く同31日を以て竣工したり。而して、4月3日の佳辰(*44)を卜し(*45)、本構内に愛甲、高座、中、津久井の四郡各学黌(*46)生徒の大運動会を開催し、数十りゅう(*47)の校旗は、晴天に翻り頗る盛会なりき。爾来(*47-1)本校は県庁の造営に係り、12月を以て第一の工事()ぼ落成し、其後追年工事を継続し数棟の新築完了。

翌明治35年4月13日に至り、開校式を挙行せらる。文部大臣代理普通学務局長柳沢政太郎氏臨席、有益なる式辞あり。之に次で、周布知事(*47-2)以下各員祝辞を朗読す。大屋校長の答辞を以て盛大なる式典の終りを告ぐ。

是より先、敷地買収に係る費用及び学校附近の通学路改修費に充つる寄付金7,869円余、各町村有志者の姓名金額名簿を本県庁に奉呈す。其の内訳、左掲の如し

下川入村700円 佐野市郎、25円 小宮隆、10円 笹生徳太郎
 10円 和田卯之助、外金10円以下14名略之
依知村500円 中丸重郎兵衛、25円 高橋満次郎、
 20円 小林栄太郎、外金10円以下75名略之
妻田村300円 永野毅、100円 石川淑、70円 川井瀞、
 70円 長野剛、70円 石川喜三郎、25円 川島光太郎、
 20円 落合梅造、20円 川井安太郎、外金10円以下2名略之
南毛利村150円 山口泰、150円 霜島甚四郎、100円 霜島久圓、
 50円 早川耕造、40円 牧田宮一郎、40円 内山良平、
 30円 和田仲造、30円 和田又三郎、30円 石井欣四郎、
 25円 小宮富次郎、 20円 古沢鷹太郎、20円 小森森造、
 20円 杉山伊平、20円 溝呂木七郎、15円 山口左四郎、
 15円 内藤善次郎、15円 平井亀三郎、
 15円 井萱冶左衛門、15円 落合市平、15円 平本浜吉、
 12円 吉岡治次、12円 石井市太郎、12円 原島鎌吉、
 10円 霜嶋清太郎、10円 杉山安五郎、10円 石井佐市、
外金10円以下164名略之
玉川村150円 小金井伝四郎、 50円 三橋喜代次郎、
 15円 小瀬村七之輔、15円 三橋泰一、10円 小瀬村太一、
 10円 和田探玄、外金10円以下59名略之
中津村150円 熊坂弁蔵、35円 梅沢房平、 35円 中村正造、
 35円 中村雪亮、25円 井上元治、20円 茅稽造、
 15円 熊坂忠次郎、15円 足立原方三、15円 梅沢千造、
 15円 杉山保吉、15円 大野生吉、
 13円 脇嶋吉太郎、12円 中村晴吉、
 10円 熊坂久吉、10円 原太郎、10円 中村里三、
 10円 木下延太郎、10円 山田要次郎、10円 大野平作、
 10円 大野孫七、10円 梅沢熊三、外金10円以下34名略之
宮ヶ瀬村100円 落合金次郎、10円 山本泰一郎、10円 山本保、
外金10円以下12名略之
厚木町 80円 渋谷常八、80円 内田佐吉、80円 竹村甚右衛門、
 80円 安西重八、65円 中野新兵衛、65円 国嶋彦八、
 55円 高部源兵衛、40円 柳川三郎兵衛、
 40円 斉藤正兵衛、32円 仁藤佐兵衛、32円 相原専蔵、
 28円 清水トク、25円 清田半兵衛、20円 安藤浪三郎、
 20円 清水儀七、20円 鈴木久次郎、20円 内田仁兵衛、
 20円 斉藤長七、20円 吉村太平、20円 溝呂木源兵衛、
 20円 田川辰之助、15円 後藤四郎次郎、
 15円 溝呂木所左衛門、15円 柳田音五郎、
 12円 中丸又七、12円 告原作次郎、12円 内田悦太郎、
 12円 浅岡清太郎、10円 後藤宗七、
外金10円以下34名略之
愛川村 50円 大矢武平、30円 染谷三郎、30円 内田国蔵、
 30円 井上保次郎、25円 井上万吉、25円 新井松太郎、
 20円 甘利友吉、20円 小嶋哲三、20円 関原久吉、
 20円 小嶋儀平、20円 佐藤嘉助、15円 佐藤今蔵、
 15円 大矢善左衛門、15円 小嶋玉之助、10円 大貫佐吉、
 10円 小嶋駒吉、10円 小嶋辰之助、10円 伊従仲太郎、
外金10円以下40名略之
荻野村 50円 岸重郎平、20円 大谷忠蔵、20円 三橋吉十郎、
 20円 神崎増右衛門、17円 片野徳三、17円 斉藤作次郎、
 15円 神崎正兵衛、10円 難波孫次郎、10円 石井道三、
 10円 曽根勇右衛門、10円 斉藤元吉、
外金10円以下65名略之
三田村 50円 落合清五郎、20円 井上篤太郎、20円 大沢延太郎、
 10円 村上安次郎、外金10円以下27名略之
林村 35円 鈴木清太郎、35円 平井茂平、25円 葉山彦太郎、
 20円 成瀬十七郎、20円 小嶋仁之助、12円 岸久馬助、
 12円 成瀬高治、外金10円以下65名略之
小鮎村 25円 森久保竹美、25円 石川福太郎、20円 外山健次郎、
 20円 青木太吉、15円 守屋森三郎、10円 森豊吉、
 10円 安藤清次、10円 岩崎吉太郎、10円 中村三左衛門、
 10円 森久保徳三郎、外金10円以下114名略之
及川村 20円 桐生織次郎、17円 渋谷亀吉、10円 桐生力蔵、
外金10円以下37名略之
高峰村 10円 成井市平、10円 池田良助、10円 菊地原熊蔵、
外金10円以下80名略之
棚沢村 10円 井上茂作、外金10円以下14名略之
煤ヶ谷村外金10円以下29名略之
中郡相川村100円 小塩八郎右衛門、30円 大貫弥七、20円 米山嘉三郎
 10円 横山政吉、外金10円以下2名略之
成瀬村100円 石井虎之助
大田村 10円 和田壮三
以上寄付金総額 7,869円、総人員 1,030有余命なり。

故人曰く、二人同心其の利断金(*47-3)と。(いわん)や多数人士の協同一致、黽勉事に従い、上下其の徳を一にせば何事か成らざらん。是れ、実に本郡の名誉にして、未来永遠に本校より済々(さいさい)たる(*48)多士を輩出し、直接間接に国利民福の増進を図るに至は勿論なりとす。此地、昔、推古帝の御字、七堂伽藍の建立ありて、玉照尼の住持たる史跡の勝地たり。然るに、鎌倉時代建長4年、不幸にして祝融(*49)の禍災に罹り烏有に帰せり(*50)と。所謂(いわゆる)尼寺原の称、此時に起る焉(*51)。其の後、600有余年の星霜を経て、明治の今日、文運の進歩に伴い、ここに神奈川県第三中学校を建設するに至れり。此創立に際し、拮据経営せる諸士の功労は実に没す可らざるものであり、因て、其の顛末を記し、永く記念に存すと云爾(しかいう)(*52)

 明治43年6月 上澣(*53)

起稿者 霜島久圓
校閲者 正六位 原田千之介



※補注
*1 拮据経営「拮据」は、いそがしく働くこと。
*1-1 郡視学旧制度の地方教育行政官。市視学・郡視学・府県視学があり、学事の視察および教育指導に当たった。
*2 黙然黙ってものを言わないさま。
*3 該問題になっている事物をさしていう語。「該中学新設」は、問題になっていた、その中学校新設の意
*4 (もっと)はたまた。そうはいうものの。
*5 概目おおよそ
*6 人車人力車
*7 (けだ)考えてみるのに。想像するに。あるいは。
*8 漸次次第次第に
*9 2町歩1町=10段(反)=100畝=3,000坪。1段の値段を165円とすると、1坪(3.3m²)は約55銭。中学校敷地6千坪(2町歩)では約3,300円となる。
*10 ()いてついで。ひきつづいて、まもなく。
*11 追々順序を追って
*12 爾後(じご)それ以来
*12-1 具状詳しく事情を書き述べること。
*12-2 周布知事周布(すふ) 公平(こうへい)
嘉永3年12月6日(1851年1月7日)−大正10年(1921年2月15日)は明治の政治家・官僚、長州藩出身。
長州藩士周布政之助の次男(長男周布藤吾は1865年、第二次長州征伐の際に戦死)。
男爵、貴族院議員。
ベルギー留学:1872年(明治5年)
太政官法制部少書記官:1881年(明治14年)
第一次山縣有朋内閣 内閣書記官長(現官房長官):1889年(明治22年)12月26日〜1891年5月6日
兵庫県知事:1891年6月15日〜1897年4月7日
神奈川県知事:1900年(明治33年)6月16日〜1912年(明治45年)1月12日
*13 詳悉大変詳しいこと。
*14 凝らす集中させる。
*15 (そもそ)文頭に用いる語。いったい。
*16 客年昨年
*17 微衷(びちゅう)自分のまごころの謙譲語。微意。
*18 予て前もって。前々から。
*19 穿井(せんせい)井戸を掘ること。
*20 余贏(よえい)余も贏も、あまり。
*21 攪乱(かくらん)かき乱すこと。
*22 (ごう)すこしも。いささかも。
*23 熟ら念を入れるさま。つくづく。よくよく。
*24 以為く思って(考えて)いるのには。
*25 倶に共に。
*26 就中特に。その中で。
*27 具にもれなく揃うさま。ことごとく。
*28 騒擾騒ぎ乱れること。
*29 弥々とうとう。ついに。
*30 強請無理に頼むこと。ゆすること。
*31 宣しくほどよく。適当に。
*32 彼此あれこれ
*33 寓居仮の住宅
*34 卒然だしぬけ。急に。
*35 誰何「だれか」と呼びかけて問いただすこと。
*36 弁ぜずわからず。「弁ずる」は、わかる意。
*37 頃日このごろ。近頃。
*38 憾む残念に思う。
*38-1 講求物事を深く調べ、その意味や本質を説き明かすこと。
*39 郡衙郡役所
*39-1 七十八銀行明治期に大分県中津町(現中津市)で設立された銀行。
1878年(明治11年)10月に中津町で、中津藩士族を中心に設立、初代頭取は山口広江。
1888年(明治21年)8月、八王子銀行(神奈川県八王子町(現東京都八王子市)に買収され、本店を中津から八王子に移転、中津にあった本店は中津支店になる(その後中津支店は第二十三国立銀行に統合)。
1898年(明治31年)10月、営業満期国立銀行処分法に基づき、私立銀行八王子第七十八銀行に改称。
1909年(明治42年)1月22日、任意解散。
*40 暫時しばらくの間。
*41 の電文「今朝、小沢を他へ取られぬ為、同伴して、横浜尾上町小田原屋に行くべし」
*42 恟々(きょうきょう)恐れおののくさま。
*43 黽勉(びんべん)つとめはげむこと。精を出すこと。
*44 佳辰めでたい日。
*45 卜す占って定める。
*46 学黌学校と同じ。
*47 りゅう接尾語、助数詞、旗・(のぼり)などを数えるのに用いる。
*47-1爾来それ以来
*47-3
 二人同心其の
 利断金
二人の人間が心を合わせて一致協力すれば、固い金属でも断ち切るような威力を発揮するという意味。二人同心其利断金 『易経』
*48 済々(さいさい)「せいせい」とも。多くて盛んなさま。
*49 祝融火災のこと。「祝融の禍災」=火事
*50 烏有に帰すすっかりなくなる。「烏有」は何も存在しないこと。
*51 焉句末の助字として用い、置字とし、訓読の場合は読まない。語調を整えたり、確認、断定の語気を表す。
*52 云爾(しかいう)文章の末尾に用い、「上述のとおりである」の意を表す。=云爾(うんじ)
*53 上澣月のはじめの十日間。上旬。

(第2節 高8回 吉成征一編)


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